JavaScript が有効になっている必要があります。このブラウザでは、JavaScript が無効になっているか、サポートされていないようです。標準 HTML 形式を使用するには、ブラウザのオプションを変更して JavaScript を有効にし、もう一度お試しください。

【コラム】創業のころ

【コラム】創業のころ

明治26年初代荒川重四郎、喜多方市小田付道下七一三四にて資源回収業を開業。
緑町通り、緑町四四九四番地に本格的な木造二階建て瓦葺きの深瀬家(伯父深瀬幸助コウ夫妻)宅がある。
丸に吉の字の軒瓦、当時の屋号マルキチの痕跡が残っている。ここが荒川家本家、荒川呉服店跡。私が喜多方に戻ってきた50年前当時の業界無尽の一つに古着業無尽という会があった。
三井物産の祖業三井家越後屋も古着商売から始まったとの話から想像するに、荒川呉服店も今のような晴れ着の呉服ではなく、古着の行商が中心だったのではないかと想像する。
中央通りの相良洋品店はその前は末広町の一本東の通りの民家で行商を中心に発展して現在地に移転した。
同じく星幸商店も緑町ボタン屋文房具店と斎藤くるみ屋さんの間での創業。映画『てんびんの唄』の世界ではないだろうか。
ちなみに私の幼児期、子どもたちの間での荒川産業の呼称は「ぼろや」であり「屑屋(くずや)」の言葉は記憶にない。
兄の十三郎と力を合わせて家業を盛りたてた重四郎はやがて荒川重四郎商店として、緑町横丁で独立。
本家からの支援もなく裸一貫の厳しいスタートだったと聞いている。それを内職レベルの古道具屋として創業以前から支えたのが祖母リサ。
本当の創業者はりサで俺は本当は三代目だと、父二代目重四郎の言葉である。
当時の名残の古道具の数々、刀のつばはミカン箱に数箱が残っていたが、今あるのは金象眼の数枚と戦時に金物供出して残った槍の竿だけである。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.33から抜粋
\ この記事をシェアする /

タグ

タイトルとURLをコピーしました