以下の白黒写真(昭和50 年頃)は、荒川産業野球部ユニフォーム新調の記念写真。
当時の社長・2 代目荒川重四郎は野球好きで、労働基準協会主催の対抗戦で玉川金属(現・三菱マテリアル若松製作所)との対戦中クロスプレーで骨折するくらい熱中していた。
写真の前列右側が田部功さん(工事部長として現在の磐梯工事部の基礎を築いた)、左側が菊地久夫さん(アマルク町北の前身である会津スクラップセンタ—の所長を務めた。現在蔵のまち農園の株主の一人でもある)の若き日の姿だ。
場所は喜多方市緑町にあった旧本社(今の拙宅)の前。左に見える木造建屋のガラス窓が小仕切り場(持込物の品種と重量を確定する場所。出荷は台貫、入荷は小台秤)当時はリヤカーで資源回収をする寄せ屋さんが数十人いて、夕方にはコップ酒を振舞ったと聞いた。
当時、鉄スクラップ出荷は国鉄の貨物列車による北長岡駅北越メタル、燕駅三星金属への鉄道輸送が主だった。喜多方駅構内の貨物事務所に空貨車手配を依頼し、この狭い道をトラックで駅まで運搬。途中の軒先をたびたび損壊させてしまった。
これが現在の本社所在地への移転の一因となった。
昭和50 年、国鉄のストライキにより全国的に鉄道輸送からトラック輸送への大転換が起き、わが社も10tトラックによる出荷に切替えた。
当時、まだ未整備な国道を使った輸送に果敢にチャレンジしてくれたのが菊地久夫さんだった。今あらためて心からの感謝を捧げる。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.20から抜粋