昭和50年(1975年)3月に私が25歳で荒川産業に入社した当時、昭和48年からの第一次オイルショックの影響を受けて昭和49年12月期決算(第26期)は年商3億2千万円・経常利益1千2百万円。
これが翌年の昭和50年12月期は年商1億6千万円と売上が半減し、経常損失1千3百万円の赤字決算となり、大変厳しい状況だった。
昭和53年、原油価格・電力料金高騰の影響を受け、昭和電工様の喜多方第二電解工場が閉鎖。それまで昭和電工様の常駐企業だった当社も事業所を閉鎖・撤退した。
最盛期にはアルミ精錬溶湯の真空吸上げ回収、副資材の場内運搬、陽極スパイク研磨矯正、排気棟洗浄液回収と氷晶石生産、電極工場コークス原料投入作業など約30名の社員がいたが、幹部数名を残し解雇せざるを得なかった。(昭和53年の我が社の年商2億3千万円・経常利益は426万円でかろうじて黒字決算となるも、翌年には第二次オイルショックが到来し、昭和57年には第三電解工場も停止となった)
大電流のアルミ精錬工程はアルミ電蝕異常腐食により鋼製電解炉の寿命は数年であった。
大型炉は一基100トンの鉄くず発生でわが社の大きな商権であった。売上減少をどう埋めるか、答えの出ない課題にイラつき当時の社長であった父(二代目荒川重四郎)に毎晩けんか腰で突っ掛かっていた。自分の幼さと父への感謝とを恥ずかしく思い出す。
昭和54年、旧会津スクラップセンター(会津若松市町北町大字始字深町88-1 ※)を、第二次オイルショックの中で開設した。
荷役機械は中古のIHIコーリングのマグネット付きクローラクレーン。移動式クレーン士免許取得は渡部俊英初代所長と富山まで出かけた。
三菱製鋼のシェル廃砂で埋立てたヤードは冬泥寧となり難渋した。主たる施設は当時の県内トップクラスとなる富士車輛製500トンギロチンシャー。
堺まで見学に行き扱い量の大きさに圧倒され、取扱説明書の分厚い図面や構造に納得させられ、最後は清水の舞台から飛び降りるしかないと父と二人の決断だった。
高金利時代に年商の半分に相当する借入を行い「倒産コ—スだ」と言われ、その後数年償却赤字が続いたが、これが今に至る発展の大きな礎となった。
※会津スクラップセンタ—は平成18年に場所を移転、名称を「アマルク会津町北」と変更して現在に至ります。旧工場は現在資材置き場として使用されるとともに、郡東エクスプレス様に駐車場としてお貸ししています。
※当時の日付のまま掲載しております。荒川通信No.27から抜粋