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【コラム】フェニックス工業立ち上げ時のエピソード

【コラム】フェニックス工業立ち上げ時のエピソード

リ—マンショックが明けて翌2009年2月上旬、昭和電工採東長原製作所様の協力企業である小松鉄工所の社長が突然来社、「会社を買ってもらいたい」という要請である。
不動産部門の他、会津若松市・門田一ノ堰の機械加工部門を数年前に閉鎖、余力ない中、月二千万円台の売り上げが百万円台に落ち込み、税務署、社会保険事務所に3月期日の小切手三百万発行していて、不渡り確実な状況だ。
役所は期日の延期は認めないので、急逮その足で昭和電工様に同道し指示を仰いだ。
「経営権の譲渡は了するが、一日たりとも業務に滞りがないようにしてほしい」との指示で、当時のキャボットス—パーメタル社(現グロ—バルアドバンストメタルジャパン)も同様であった。
前年の平和物産経営権取得による混乱が治っていない中で倒産期日が迫り、法的な日程、社員の雇用継続など困難が予想された。
3月21日(土)焼肉龍鳳で業務の継続、新会社設立を当時の社員全員で話し合った。本音を聞くために旧経営陣ぬきで、若林久美子総務課長がKJ法を使って意見を集約。
業務が少ない当分の間は継続希望者全員が輪番でバイトでの勤務を決めた。
焼肉会は盛り上がり「フェニックスエ業株」の社名もその中で決まった。5月には法人登記が完了。
採唐橋工業所から工事部に移籍していた一級建築設計士の江口隆を部長、工事課長木村隆、事務佐藤佐紀子のほか比嘉徳英、伊藤光芳、吉田一夫、渡部博志、一ノ瀬義夫、田崎国雄、田中周一、中村大作、熊谷寛、佐藤将、泉田吉正、物江孝、小林重一の面々でスタート。
全員一丸となって危機を乗り越えることができて現在に至る。多くの方に感謝、感謝です。
※当時の日付・役職・会社名のまま掲載しております。荒川通信No.23から抜粋
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